女と男《7》 恋愛感情と条件 

「この人が好き。だからこの人と一緒にいたい」

と考える人と、

「この人と一緒にいれば、自分の思惑が叶う。だから一緒にいたい」

と考える人がいると思う。

 

両方が混在している人もいるし、
思惑からはじまったのに、変わる人もいると思う。
お見合いから長い愛情がはじまる場合もある。
恋愛・結婚指南の考え方にもどちらもあって、
現代では、一般的には後者が「賢い選択」とされていて、
前者は、相手との関係性に行きづまるような状態になった時、
思いやりの心を復活させるために、投げかけられる言葉だったりする。

 

私の場合は

「ヽ(^▽^*)/〜♡♡♡ 好きい! きゃー、一緒にいるーー♡♡」

と思ったのに、

「うおぉおおぉ・・・ヤバーーーッ! 逃げろーー ΣΣ(; ̄△ ̄)」

ということになるパターンが過去にあって、
振り返るたびに、それってどうなんだと自分で自分に落胆するが、
まずは「この人が好き!」から入るほうだ。
相手を好きになる心に隙があるから、失敗もするが、
それ以外の方法で、恋愛感情を持てないから仕方ない。

 

ところが、こういう感情先走り型の私が、やたらと
「結婚したほうがいいのかなあ」とボヤボヤ思っていたことが
あった。相手がいるわけではなかった。
でも、周囲の人にそう漏らしていた。
結局そのボヤボヤは、「好き!」と思える人が出現してたちまち
雲散霧消してしまったのだが……。

 

最近、その頃のことを振り返って、よくよく考えたのだが、
あれは、経済的な不安の現れだったんだと気が付いた。

当時は、自分が仕事を得ていた取引先の中で、二番目に太かった
広告の会社が解散してしまい、収入が3割減になっていた。
そんなことはフリーランスで生きていれば何度も起きることで、
すべては自分の責任だから、バイトでもなんでもしながら必死で
立て直すしかないのだが、
年齢的な面や、体調の悪さを感じることが多くなったり、
そのちょっと前に、一緒に楽しくやっていた相棒が急死したり、
根本的にかなりの不安があって、心に影響していた時期だった。
それで、

 

「このまま一人でやっていくのは、しんどいかも」

 

という気持ちが生まれていたのだ。
そういう気持ちから出現したのが「結婚したほうがいいのかなあ」。
つまり、「経済的に少しでも頼りになる男性を見つけて、安心を
得ることを
考えたほうがいいのかなあ」という風に思ったんだろう。

 

「好きなこの人と一緒にいたい」という恋愛しかできないのに、
どこにいるかわからない「いたら良さそうな人」を描いたわけだ。
もちろんそんな人はいないわけで……。

 

だから、格差がどんどん広がり、女性の待遇も低い状態で、
付き合う男性の条件として「経済面」を重視する人の気持ちは
わかる。
そうでないと生活を保てなさそうだという不安を、気合や理屈で
解消するのは無理だ。
私のような「無計画・ダ・ノーフューチャー!」は珍獣で、
ある程度は人生の計画をするほうがいいと思う。

 

ただ私の「結婚したほうがいいのかなあ」は現実感がなかった。
過去にもっと凄い貧乏を体験したからかもしれない。
本気の危機になると、ひたすら必死で働いて動くしかないから
悩んでる暇もなくなる。
ボヤボヤと結婚を思い浮かべたのは、
実は、「悩む余裕」から生まれた不安でしかなかった。

 

その後、経済状況はなんとか立て直して、
以前の傾いたアパートから、現在の真っすぐなマンションに引越して、
贅沢はできないけど、とにかく落ち着いて仕事する環境は作った。

 

それから、息子との関係が、当初に想像していたものとは違う展開
になってきた。今は、自分の収入がもっと上がって、自宅と別に、
仕事部屋を借りるぐらいのことができる状態になったなら、
その時もし縁のある人がいれば、生活を共にすることを考えても
いいのかな、という風に考えるようになった。

 

恋愛感情はあっても、とにかく「資金難による吸収合併」のような
形は私は選ばないでおこうと思っている。
大変だけど、貧乏でいいから自立しておきたいのだ。

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女と男《6》 義父と夫

「私は結婚して夫と共働き。夫の両親と同居です。
私は教師です。仕事が忙しく、家のことをする余裕がないのですが、
幸いにも笑顔で引き受けてくれる義母に恵まれ、任せてきました。
ところがこの数年、義母の家事に対する姿勢があまりに完全主義で
私はいま、とても苦しい思いをしています」

 

「義母は掃除、洗濯、食事の支度まで、自分の一日のすべてを
家事に使っています。なぜそこまで義母はがんばるのか?
実は、すべては息子のため……つまり私の夫のためだったのです。
漬物一つから、すべてが私の夫の好みに合わせられており、
夫はとても幸福そうにしていますが、私はたまの休みになっても、
まったく妻らしいことはできず、義母に太刀打ちできません」

 

「義母は義父と結婚し、戦争の過酷な時代を乗り越えましたが、
戦後の農地改革ですべてを失い、たちまち夫と不仲になったと
いいます。4人いた子どもも次々と死に、残ったのは次男だけ。
それが私の夫なのです」

 

「義母は義父の存在を疎んじているようでした。
若い頃の義父は大変な女道楽で、だらしなく、ヤクザのようなもの
だったといいます。才女だった妻は相当に苦しめられたそうです。
その仕返しを今になってしているのでしょうか」

「義父が帰宅しても、義母は玄関に出たことはありません。
食事も、私の夫には自分のものをさいてでも与えるのに、
義父には味噌汁一杯あたためません。
私は、私の夫のためにこしらえられた食事のおこぼれを、
申し訳ない思いでいただきながら、疎外されている義父を
かわいそうに思って味噌汁やおかずをあたためてあげて
いるような状態です」

 

「一昨年、義父は体調を壊して寝込みましたが、
その間、義母は一度も義父の様子をうかがうことはなく、
世話をしたのは私ひとりでした。
一方で、私の夫が風邪をひいた時は、義母は、私の夫の寝室に
陣取って看病の限りを尽くし、お互いふたりだけにしか見せない
表情を浮かべ、それは幸福そうに談笑していました」

 

「私がこの家に嫁入りをして、誰よりも喜んでくれたのは、
完全に疎外されている義父でした。
しかし、その義父も他界しました」

 

「私はある日、夫にすがりついて泣きました。
『私は一体なんなのよ。これじゃあまるでお義母さんが妻で、
私は二号さんじゃないの!』
すると夫は言いました。
『もうすこしの辛抱だ。おふくろは本当に苦労させられたんだ。
俺だけが頼りなんだ。それが嫌なら君の自由にしてもいいよ』」

 

「義母は、私の夫に対してまるで妻のように振舞っています。
でも、肉体関係があるのは本当の妻である私だけ。
その点、私は現役で、義母は私に勝てません。
肉体関係だけが誇りだなんて、なんてイヤらしいのでしょう。
でも、夫はこのイヤらしさとは絶対に離れられないはずです。
義母が夫から離れないのなら、私はますますセクシーな女になり
夫を自分のものにしてやろう。
こんな私は、将来、色き〇がいの姑になるのでしょうか」

 

以上、1973年の『婦人公論6月号』に掲載されていた、
嫁姑体験記より要約して再構成。実話。

はわわ。まるで『泥にまみれて・その後』だ。
夫婦関係で秘められた嫉妬心は、その後、こうして息子に
投射され、嫁姑問題を引き起こす。

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「客観」考

先日の生放送で「客観視とはなんなのか」という話をした後、
しばらく考えていたことなのだけれども、

完璧な客観視というのは人間には不可能な話で、
重要なことは、物事を見るとき、考えるときに、
どれだけ自分の視点を動かす自由を獲得しているかということ、
そういう姿勢を持とうとすることなんじゃないかと思った。
視点は、左右にも、上下にも、遠近にも動かせるものだ。
もしかしたら「遠近」が一番難しいかもしれないけど、
現実には奥行きがあるから、そこは鍛えたい…。

 

そして、そんな風に視点を動かすのは、ほかならぬ自分だと思う。
だからやっぱり、「客観」とは言え、
他人の視線を借りるということではなく、
どのぐらい自分で疑問を持っているか、とか、
どのぐらい自分の意思を持っているか、とか、
どのぐらい現実を見ようとしているか、というところに、
かかってくるように思う。
こりゃ大変。

こんなの、私がひとりで考えてるだけで、
実は当たり前のことなのかもしれないけどな。
でも、特に政治家はそういう人であってほしいよ。

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女と男《5》 アナと雪の女王

『アナと雪の女王』の続編が来週公開されるそうで、
昨夜テレビをつけると、前作が放送されていた。
ちょうど雪山の「ありの〜ままで〜」のシーンだった。

 

あの歌は一番の見せ場だけれども、
歌っている女王・エルサ本人にとっては、
「自分の魔法の力を封じなければならない」という恐怖から、
人々に対しても、自分を心配してくれる妹アナに対しても、
そして、自分自身の過去に対してまでも扉を閉ざし、
孤立して生きるということを決めた、
その、ごく一時的な反動による解放の瞬間だ。
歌の伸びやかさと、現実のエルサの境遇との落差がはげしく、
なかなか複雑な気持ちにさせられる場面でもある。

 

『アナ雪』では、男女の恋愛はあくまでもオマケでしかない。
それよりも社会の中で能力と感情を抑えて、
殻の中に閉じこもって生きるしかなくなった女王を、
どう解放するのかということに主眼が置かれた、
ものすごく現代的な物語になっている。

 

「白馬の王子様」なんかロクでもない男だという設定だし、
エルサが魔法を使っていたという記憶を消されて、
ただただ朗らかに生きてきたアナのほうは、
そのロクでもない男に簡単に騙される。

 

アナもまた、エルサのように重要な過去の記憶を封印されており、
エルサの分身のような存在として、淋しさゆえにニセモノの愛に
惑わされる子羊なのである。

 

エルサの凍りついた心のために、分身のアナもまた心が凍って
死に向かうことになるが、これを救うには、おとぎ話らしく
「真実の愛」が必要だということになる。
だが、そのために必要なのは男性ではない。

 

愛が必要で、愛を与えてあげなければならないのは、
姉・エルサが過去に置き去りにし、拒絶し、蔑視してきた
「自分自身」なのである。

自分を受け入れられなかったから、周囲の人々を拒絶し、
氷の壁を作ってきた。
その姿を、分身である妹・アナを通して見つけ、抱いたことで、
はじめて自分の「ありのまま」を愛せる心が完成し、
周囲と打ち解けられるようになる。

 

心の成長をとげ、強く生きていける自分に生まれ変わった、
その瞬間がクライマックスなのだ。

 

冒険と成長といえば、少年の物語というイメージがあったが、
『アナ雪』は、少女を通して、内面の冒険と成長を描いた。

 

そこには、子供たちの置かれている孤独や孤立も反映されているし、
社会において能力を封印される女性の姿も反映されている。
続編はどんな物語になるのだろう。

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女と男《4》 羨望

「少年にはペニスがあるが、少女にはそれがない。
だから少女は無意識にペニスを羨ましく思うという
コンプレックスを持つようになり、
少女は自分を劣等なものとみなす。
それが『男になりたい』という願望や、
少年への復讐心を生み出し、
少年はそのような少女に怯える」

 

って、
以前読んだ古い精神分析学の解説書に書かれていたのだが、
フロイトの理論がベースになっているらしい。

 

男も女もそれぞれの身体を授かって生まれて来るのに、
どしてその結果、ペニスだけに話が回収されていくんだろう?
よくわからなかった。
むしろそれって、自分のペニスを貴重品だと思いすぎた男が、
ちょん切られる恐怖から妄想を抱いたんじゃないのかしら、
なんて思ったりもした。

 

それで、同時代の女性の意見も知りたいと思い、
カレン・ホーナイという女性の精神分析医の本と出会った。

 

ホーナイは、フロイトの理論が男性に偏っていると指摘しつつ、
けれども、完全に否定する態度はとらず、

 

「Aの理論は不満に思うし、考察が足りないと思うが、
Bの理論はたしかに自分が診てきた女性患者を分析したものと
合致する。この点において、フロイトの推測は正しいだろう」

 

という姿勢で、批判しながら、発展もさせていた。

 

ホーナイが研究してきた、強い劣等感を持つ女性たちの中には、
確かに子供の頃、道端で立ち小便をする男性を見たりなんかして、
「自分にはあれがない」と強烈に思った人たちもいるようだ。
でも、それが女性のすべてというわけじゃない。

 

性器の違いはそれぞれの性への影響はたしかにあるようだが、
男性には突き出たものがある一方で、
女性には「宿して生む」という生殖機能がある。
単に「異なる」だけで、どちらかが劣っているとか、
不利であるということはない。

ホーナイは、むしろ「繁殖力」においては、女性のほうが有利で、
男性が女性を羨望するところもあるのではと言う。

 

他にも女性の深層心理について、社会との関係が影響を与える面も
大きいはずだという視点で、いろんな女性の性格について分析する
論考を書いていて、面白く読んだ。
難しすぎて斜め読みになるところもすごく多いけど。

 

カレン・ホーナイは、長年フロイトの理論に沿って臨床した上で、
その結果から、批判的な意見を含む論文を書いたのだが、
「精神分析学の創始者たるフロイトこそ正統派」とする学者たちに
大変な衝撃を与えてしまったらしく、精神分析協会から除名された
らしい。

 

なんだそりゃ。
権威主義って本当に幼稚なことをするんだな。
男尊女卑じゃないか?
よりにもよって精神分析の学者たちがねえ。

 

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女と男《3》 男やもめ

 

「男やもめにウジがわき、女やもめに花が咲く」

 

妻を失った「男やもめ」は、それはもう悲惨なものだが、
夫を失った「女やもめ」は、そこから自由に着飾ったりして、
第二の人生を謳歌させるものだというイメージがある。

 

妻に尽くされた男と、夫に尽くした女、
それぞれの人生の終盤の姿だが、いつ頃生まれた言葉だろう?
私が聞いたのは、池袋の寄席だったから、恐らく江戸時代の
庶民文化から出たのだろうと想像しているが、
現在でも、40代ぐらいから上の夫婦には通じる世界観に思う。

 

「男やもめ」はまだ言葉として残っているほうだと思うが、
「女やもめ」は使わない。
配偶者を亡くした人として、男のほうが哀れな存在に見えて、
ひそひそと話題にのぼりがちだからだろうか。

 

「男やもめになって、かわいそうねえ、すっかり老け込んで」

 

女がこういう風に語るとき、
本当にその男性に同情して心を痛めている場合と、
心の底に自分の夫への憎悪や敵意を隠し持っていて、
それを男やもめになった人に投影することで、
「あの人、いままで散々奥さんに依存してきたのね、いい気味」
と見下している場合があると思う。

 

つまり蔑称なのかもしれない。

だからってポリコレ棒で殴らないでほしいが。

 

外から「女に尽くさせる勝手な男」「男に尽くす弱い女」と
いう風に見えていても、それは「今、目で見える範囲のもの」
に対する評価でしかなく、
ある日、人生のヴェールが開帳されたとき、
実は女も男も他人が批判できるほど簡単な生き方ではなかった、
ということがわかるものなのだと思う。

 

 

数年前、93歳の夫が60年間連れ添った83歳の妻を絞殺するという
事件が発生し、その裁判があった。
妻は事件の1年ほど前から足腰が弱り、転倒して腰を骨折、
自力で歩くことができなくなっていた。

夫は90代の体に鞭を打ち、ひとりで妻の介護と家事をこなして
おり、スーパーへ買い物に出る姿などが目撃されていた。

 

妻はだんだん痛み止めの薬も効かなくなり、「痛みで眠れない」
「もう死んでもかまわない」と何度も漏らすようになった。
苦痛は増していき、事件前夜、廊下で転倒した妻がついに、
夫に「殺してほしい」と懇願した。

 

その夜、93歳の夫は83歳の妻に添い寝をして、
出会ってから結婚するまでのこと、子どもが生まれたときのこと、
夫婦の間のいろいろな思い出を語って聞かせたという。
妻は、それをニコニコと笑顔で聞いた。
60年分の夫婦の思い出を語り終わったとき、夫は妻にもう一度
その意思を確認した。
そして、ネクタイに手をかけた。

 

判決は、嘱託殺人としてはかなり異例の恩情で、
「被告人が被害者を早期に苦しみから解放することを最優先に
犯行に及んだことを強く非難することはできない。むしろ、
60年以上連れ添った妻を自ら手に掛けることを決断せざるを
得なかった被告人の苦悩を考えれば、同情を禁じ得ない」
として、「懲役3年、執行猶予5年」となった。

 

生きる気力を失った妻を、最後の最後に、夫が愛情だけで
受け止め、尽くすこともあるのだ。

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差別と障害

憲法に関する過去の自分のブログを検索していて、

「個人として尊重される」か「人として尊重される」かの議論に

ふれた記事が目に入った。

 

「小人投げ」の話を聞いたときのブログだ。

いまはほとんど禁止されているけれども、昔はヨーロッパの酒場で

行われていたというゲームが「小人投げ」。

小人症の人にヘルメットをかぶせてパンパンに詰め物をした服を着せ、

みんなで投げる。一番遠くまで投げた人が勝つ。

 

これを「差別」ととらえるか。

はたまた、投げられる小人は、投げられることで収入を得ているの

だから、「職業の自由」ととらえるか。

 

日本にだって「小人プロレス」があったし、古くは見世物小屋があったし、

中国には現在も「小矮人王国」といって、小人症の人だけがキャスト

として登場し、ダンスや曲芸を披露しているアミューズメントパークが

あり、欧米メディアや人権団体からは「障害を見世物にするな!」と

批難されている。

でも、そこで働く人たちは、それが生活の糧である。

 

障害を見世物にして稼いではならないということになれば、

障害者は、才能があっても稼いではいけないというような変な話に

なってしまう。

 

この論点、なんだかとても気になる。

人はどう結論するだろう。

自分の出した結論を「言いたくない」という人もいそうだ。

 

 

 

 

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女と男《2》 独占欲

独占欲

 

好きな男性ができて、「私と彼の美しき世界」なる幻想の時間が
過ぎ去り、なんらかの現実が見えはじめると、いつもそこから
自分の独占欲との「内なる戦い」がはじまる。

 

小学校5年生のとき、サッカー部のキャプテンだったコバヤシ君が
私の初恋の男性だ。
放課後はよく校庭で駆け回るコバヤシ君の姿をほわあんとした
気持ちで眺めていた。

 

クラスには、発育が早くてすでに大人の女らしさをまとった女子の
グループがあり、コバヤシ君は彼女たちとよく話していた。
みんなで電車に乗ってナガシマスパーランドへ遊びに行ったらしい。
ジェットコースターの話で盛り上がり、じゃれついていた。

 

私はひとりで本を読んだり、ごそごそとノートに小説を書いたり
している内向的なタイプで、「大人っぽいグループ」の様子に
圧倒されつつ、横目で羨望しながら、ただじっとしていた。

 

でも好き。ああ話したい。でも無理。でも好き。

 

想いが胸の中で爆発した私は、学校から帰るとすぐに勉強机に
向かい、ノートを開いてそこに小説を書きはじめた。

 

主人公は私とコバヤシ君である。
人気者で素晴らしい容姿と俊敏な運動能力を持つ彼、
きらきらとサッカーボールを追う元気な姿を描いたあと、
私はコバヤシ君を突然の交通事故に合わせて足の骨を折った。

 

サッカーができなくなったコバヤシ君を、散々苦悩させて
人生最悪なまでに落ち込ませる。
私はそんなコバヤシ君に付き添って、ときに励まし、ときに諭し、
ときに優しく甘くささやいて、賢明にリハビリ生活を支えて、
見事ふたたびサッカーのできる体にもどした。

 

大学ノート1冊分にもおよぶ大作で、
ジュディ・オングのような羽を広げた私が、
足にぐるぐる包帯を巻いたコバヤシ君を抱いている、
精神分析学的に見ればぞっとするような挿絵付きである。

 

書き上げたときは非常に満足した。

 

ところが、現実の学校では、コバヤシ君とはまだ話すことも
できていない。
大人っぽい女子たちに囲まれて談笑している様子を見て、
またもや内なる独占欲がめらめらと燃えはじめ、暴発していく。

 

学校から帰ると再び勉強机に向かい、新たなノートを広げて
小説の第二章を書きはじめた。

 

ようやくサッカーができるようになったコバヤシ君だったが、
今度は不治の病にして、とても頑丈な大病院に長期入院させた。
落ち込むコバヤシ君をはげまし、抱きしめ、笑顔でなごませ、
サッカーボールを窓から投げ捨ててしまう様子を、
病室のドアのすきまからジッと見ていて、
院内でサッカーチームを作る手伝いをしたりした。
コバヤシ君は二度と病院の塀の外へと出ることはなかったが、
献身的な私の看護によって、幸せに暮らした。

 

・・・・・・怖すぎる!
しかし小学生の女児でも、これほどの悪魔のような独占欲を
燃やすのである。
大学ノート2冊に渡るこの小説は、書いている本人は愛の世界と
思い込んでいるのだが、その思い込みが強すぎるところが、
むしろ「ホラー」として楽しめるという無気味さを醸していた。

 

愛子さまが、中学1年生の頃にお書きになったファンタジー小説
『愛子の診療所』とは完全真逆の強烈なエゴのみの世界である。

愛子さまは、広い海原の上に取り残された看護師の自分が、
そこに訪れたさまざまな傷ついた生き物たちをひたすら看護し、
生き物たちの生きる活力になるという世界観を描かれている。
高貴な母性で国民一人一人を包み、癒す天皇像が、中学1年生の
時点ですでに愛子さまの中に宿っているのだと思う。
すごいことだ。

 

一国民の私は、高貴な母性的感性を持つ愛子さまに感嘆しながら、
自分のひどい独占欲とのギャップにぽりぽりと頭をかき、
いつまた始まるやもしれぬ欲の暴発、内なる戦いに備えて
「アタシってばさ・・・」とだらしなく頬杖をついてため息を漏らす。
やさぐれ切らないように、少しやさぐれて、でもまた罠に嵌るのが
私のキャラクターである。

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女と男《1》

女と男《1》

 

きょうは締め切り。ブログを書いている場合じゃないのだけど、
まずいことに頭がちっとも働かなくなった。
文章を組み立てる能力を司る脳のどこかが眠ってしまったみたいだ。

九州で、何人もの人が「ブログが面白い」と言ってくれたので、
もっと裸婦に、いやラフに、自分の考えていることを書こうと思った。
ただ私はあちこち興味関心が向きすぎるので、ひとつのテーマを
深堀りしてねちねち書いたほうが面白いんじゃないかと考えた。
この際だから「女と男」というテーマで、時々、エッセイみたいに
さらさら書いていこうと思う。

 

***

 

母性についての議論をしながら、やんわりと「母性」とは一体
どういうものなのかを考えていた。
辞書を引いていろいろと読んでみたけれど、なんだか理屈っぽくて
自分の感覚とは違う気がする。
なんでもしてあげたい、世話をしてあげたい、甘えさせてあげたい、
そういうものが母性であるような雰囲気もあるけれど……。

 

私自身のなかで体験したことのある感覚をいま一度さぐったとき、
母性というのは、そういったセカセカした行為そのものではなく、
いつくしみの心で受け入れて包摂する、
「抱く(いだく)」感覚のことではないかと思い至った。

 

上皇、上皇后両陛下が、オランダの養護学校へお出ましになった時、
歓迎式典が終わってから、泣きながらとことこと駆け寄ってきた
小さな女の子を、美智子さまがすっとしゃがんでとても優しく
抱きしめるという場面があった。
オランダの人々を深く感動させた出来事としても報じられたけれど、
私は、あのお姿が、母性の象徴なのだと思う。

 

抱いて、受け入れて、包摂していく、
見返りを求めるような気持ちはないもので、
ただの優しさではなく、芯の強さや胸の深さがあるものだと思う。

受容には覚悟がいるのだ。

 

子どもを産んでいる、産んでいないは関係ないかもしれない。
母親であっても、母性をずっと持っているかもどうかわからない。
虐待親のように、母性があるとは思えない人間もいるからだ。
どこかで私欲や自己愛にまみれてしまい、見失ったり、濁ったり、
でもまた思い出し、取り戻すものかもしれない。

 

美智子さまのあの象徴的なお姿ほど完全なものではなくとも、
そこに共鳴する感性があり、抱いて、受け入れて、包摂するような
母性的感覚を持つ女性はたくさんいると思う。
そこから「なにかしてあげたい」「お世話してあげたい」という
気持ちも生まれているのではないだろうか。
だからあまり母性の否定はできない。

 

***

 

今後、このテーマで書くときは番号をふる。
推敲はなし。さらっと。
だからまったく真逆のことを書き出すかもしれない。

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ジュディ・オングもいれば林芙美子もいる

実家に、幼児の頃の私が歌を歌っているところを
父が録音したカセットテープがあって、
いつだかこっそり聞いてみたことがあるんだけど、
3歳ぐらいの私が、ものすごく気持ちよさそうに
ジュディ・オングの『魅せられて』を熱唱していて
ひとりで大爆笑してしまった。

 

「うぇでごいべでえ〜〜じぇ〜〜〜〜〜
おんにゃはうみ〜〜〜〜
しゅきなおとこの〜〜うでのなかじぇも〜〜
ちがうおとこの〜〜〜ゆめをみる〜〜
んんん〜〜はあああん〜〜んんん〜〜はあああん〜〜
わたちのな〜かで、おねむりなしゃ〜い」

 

んんん〜〜はあああん〜〜の部分が気持ちこもってて。
父もよく笑わずに録音したよね。
両手にすだれを持って、椅子の上で歌ったの、覚えてる。
あれは何かの片鱗だったのか。

 

***

 

女ごころについて。

石川達三の『泥にまみれて』は、結婚した夫婦のバージョンで、
同じ戦中戦後の時期の、結婚していないバージョンが、
林芙美子の『浮雲』かなと思う。

 

映画にもなっているけど、あれはもうただただうつむいて
ハンカチで顔をおさえる羽目になって、しばらく気分が
重苦しかった。


敗戦によって何かが崩壊してしまった男と、
どうしてもその男についていきたい女が、
どんな風になっていくのかというのを描いた話だ。

 

二人は、戦中はベトナムに赴任して蜜月を過ごしていて、
敗戦後、内地に引き上げてから、寄りかかる場所を失い、
「放浪」の道へと入っていく。
男は、自分がベトナムで女と楽しんでいたあいだ、
内地では兵隊達が血を流していたのだと思い至るのだが、
そこに恋愛も濃密に絡んでくる。しかも複数の女との。

 

正直すぎるほど正直な男女の弱さ、したたかさ、ずるさ、
血まみれの姿が描写されていくので、
私はこれを書いた林芙美子という女が「恐ろしい」と思った。

でも、放浪と恋愛と、そしてなにより現実をかなり冷徹に
組み合わせて描いてしまうこの作風は、
「やっぱり林芙美子、さすがだな」という風に思った。

 

以前住んでいた新宿のアパートの近所に、
林芙美子の元邸宅があり、「林芙美子記念館」として
公開されていたので、東京の人かと思っていたのだけど、
いま『浮雲』の本の袖を見なおしたら、九州の女性なのね。

 

恋する女は何を考えているか、わかったもんじゃない。

  


浮雲

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