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リベラリズムと倉持改憲論の復習

日曜日は、いろいろあったけれども復帰してくれた、疑惑の倉持麟太郎弁護士が参加してのゴー宣道場。

 

法律家としての本領発揮!

『倉持的リベラル改憲論』は、事前にブログをくまなく読んでメモをとりまくって予習してからの拝聴でしたが、それでも難しかった。
 



純粋に
「そもそも憲法というものはなんなのか?」という視点から
語れば、その上位概念として
《リベラル的価値》が存在する。

歴史上、人々は生まれながらに決められていた身分や、宗教観など、
その人を縛る価値観を持ってきたが、それをすべて打破して、
完全に解放された独立対等の最小単位=「個人」という概念を持ち、
その「個人」の自由を最大化しながら「寛容に、共生していこうね」
という考え方が
《リベラリズム》


そして、その共生のための枠組みとして編み出されたのが、
「個人」の集合である「国家」であり、それを縛る
《立憲主義》

そして、日本国憲法には、この《リベラルな価値》が、
第10章の第97条、98条に「基本的人権の本質」「憲法の最高法規性」
としてしっかり記されている。



ここをまずおさえると、世間では

「立憲主義守れ」「民主主義守れ」「憲法守れ」

という“リベラルっぽいスローガン”があちこちで踊っているけれど、
立憲主義という個人の集合体の「共生」の仕組みと、
民主主義という個人ひとりひとりの権利をめぐる「決定」の仕組みは、
常に引っ張り合う緊張関係にある
ということだな。



・・・ここまでは理解できたのだけど、
今度は、この個人…「リベラリズム的個人」とでも呼べばよいのかな、
という概念が、ものすごく苛酷なものに感じた。
超知的であり、超正義の支柱でなければ、つまり、超人的に理性的で
なければ、個人vs国家として、屹立していられないのではないかなと。


また、「リベラリズム的個人」という理念と、
日本国憲法の第一章に掲げられている「天皇」というものは、
すごく相容れないもののようにも感じたけど、
ここをどう理解してゆけばよいのか?

第一章の天皇条項だけをテーマにしても、斬新な倉持改憲論にさらに

かなり重厚な議論が積み重ねてゆけそうだなと思う。

「寛容」と「共生」はもちろん必要に思うけれど、
「独立対等の個人として開放する」というところまでいかないのが、
日本的なリベラリズム、なのかな? とか。


交戦権自衛権集団安全保障集団的自衛権のことはごっちゃに
なっていたので整理できてよかった。
またブログで私なりに噛み砕いた復習を書こうとおもう。

今回の倉持師範の基調講演は、多くの種をまいてくれた大変貴重な
お話だったと思う。これからどんどん芽吹かせて育てていこう。

 

次回のゴー宣道場は11月12日(日)大阪での開催!


 

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