エネルギーの使い方


寝しなにフロイトとユングに関する講義を聞いたけど、
精神分析学って、突き詰めれば「自己分析のススメ」
になっていくのじゃないかなと思った。

 

フロイトは、「ナルシシズム」「エディプスコンプレックス」
などを提唱した人だけど、本人が父親に対する猛烈な苦悩を
持ち、ノイローゼだったようだ。
アダムとイブの世界観にはまっている人でもあるから、
全体が「男性の心理」になっているのもなるほどなと思う。

ユングは、今でいうところの統合失調症で、それを自力で
乗り越えるために、自分の思う「世界」の姿を何度も絵に
描いてみた結果、それと同じものが東洋に「曼陀羅」として
既にあることを知って衝撃を受けたそうだ。

 

どちらもぎりぎりまで自己分析を突き詰めていったところに、
普遍性を発見したり、体系的な学問の流れができていった
ということなんだろう。

 

体系的なものを否定する気はぜんぜんないけど、
ただ、ある程度まではそこから学べるとしても、
やはり人間は、時代や新しい文化によって影響を受けたり、
それぞれの社会での傾向が出たりすると思うから、
「フロイト様」「ユング様」という権威だけを掲げていたら
現実とはズレてくる。
権威主義的な傾向が見られる精神科医って、要注意だ。

 

これはほかの世界でも同じだと思うけど、
やっぱり
「自分自身こそを、現在の世界と対面させて考えなさい」
というのが本当の学びどころだと思うし、
それが過去から学んで、現在に立って、未来へ踏み出す力に
なると思う。

 

せっかくエネルギーを使って過去を見ていても、
それが「過去に居座ること」を目的としている場合もあって、
それでは、成長できないからもったいない。
ずっと未熟でいたい、未熟でいるためにエネルギーを使うんだ
ってことならしょうがないけど、
未来へ向かって成熟していくことにエネルギーを変換したほうが、
勇気が出せるし、明るくって面白い。

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「一流の主婦」考

 

「女と男」というテーマを立てておきながら、
すっかり「男」が視界から外れていってしまった。
「主婦」から考える生きがいについて。

 

「仕事」というと、「収入」と結びつくイメージがあるけど、
『必殺仕事人』のように華麗に悪を始末してくれる人々を
「仕事人」と呼ぶこともあるし、
野球の試合で、ここぞという場面で登場した代打の選手が、
期待に応えて得点に結びつく打撃を飛ばしたときも、
「いい仕事するなあ」と賛美したりする。

 

必殺仕事人は、六文銭を受け取るし、
野球も、プロなら年俸をもらっているけれども、
やっぱり「稼ぐこと」ではなくて、
役割をまっとうする働きを見せることを「仕事」と
呼んでいるのだと思う。

 

「主婦」はかなりの「仕事人」だ。
食事の支度ひとつとっても、買い出しに行く前から
冷蔵庫の中の古いものと新しいものを峻別して、
これから買う必要なものを脳内で組み合わせて献立を想定し、
なおかつその中には、家族の好き嫌いや、栄養の過不足、
アレルギー、体調の変化など、過去何年ものエビデンスにより
カニはダメでんす、イカはいいでんすなど既に分析済みの
データも編み込まれている。
新婚なんかでラブラブの時は、献立を考えるたびに
立ち止まって一生懸命考えていたものが、
ベテランになると川の流れのように処理していたりする。
さらに同時に子供の様子を気にかけて、家族のあれこれ、
家や親のこと、自分のことや身だしなみもこなす。
量子コンピュータの開発者にはできない仕事ぶりを発揮
している人もいる。

 

調理ひとつにしても、
例えば小さい子供の口に入るものを作るとなると、
もやしは、ひげ状の根っこを丁寧に切り落としたり、
トマトの皮も湯むきしたり、好き嫌いなく楽しめるよう
彩りを考えたりする。

 

食べる相手が年をとってくると、今度は、本人に食べたい
ものがあるのに、歯や歯茎が衰えて噛めない現象が起きて、
ブロック肉は無理だけど、ひき肉団子は食べられるとか、
男爵芋は崩れやすくて食べやすいけど、メークインはダメとか、
様子を見ながら献立や材料選びにインプットしたりする。

 

子育て、掃除、洗濯、洗い物などあらゆる場面に、
どこまでも奥深さはあって、
自分一人のためなら、自分好みのやり方で済んでいくところが、
「誰かのために」「この暮らしのために」となると、
専業であれ兼業であれ、主婦としての能力がフルに発揮されて、
徹底的な「仕事人」になっていくのだと思う。

 

どんな仕事にも一流の働きをしている人はいて、
一流の経営者、一流の職人、一流の営業マンなどがいるように、
一流の主婦もたくさんいるはずだ。

 

どのような場所にいて、どのような仕事をしていても、
自分のやるべきことに対してどんな態度をとっているか、
ということに、その人の生きがいが生まれると思う。

 

でもそういった感覚を保ち続けるのが難しい世の中に
どんどんなっていく。

 

経済至上主義、強欲資本主義に引っ張られて、
自分の稼いだ大金を見せつけることが成功のスタンダードだとか、
スポットの当たる、光の当たる世界だけが素晴らしいとか、
そういった感性があまりにはびこってしまうと、
市井の人の生真面目な一流さがないがしろにされたり、
踏みつぶされたりしてしまうのではないか?

 

「成功者」を目指すノウハウなんかがバカ売れしてるけど、
本当は、「成熟した一流の仕事人」を目指していける社会を
作るほうが良いのだと思う。
主婦は仕事人だ。

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機能していない家族

「幸せな家族」であるように見えながら、
内実は、家族として機能していないということがある。

 

素敵な夫、優しい妻、お利口さんの息子さん、お嬢ちゃん、
「非の打ち所のない理想的なご家庭で、うらやましいですね」
周囲からはそう見えていても、ただ「形」が完全なだけで、
実は家族間の「心」の交流がまったく不完全で、
誰にも見えない大問題が横たわっている場合がある。

 

「世間からどう見られるか」という体裁ばかり考えていたり。
学歴や成績など優秀さだけを追い求めていたり。
「私の理想の家庭像」「私の理想の子供像」を押し付けていたり。
大きな秘密や思惑があり、コミュニケーションが歪んでいたり。
親が「私を見て、わかって」というタイプだったり。

 

特に、親が自分のことや体裁ばかり気にしていて、
子供を表面的にしか見ていなかったりすると、
子供は「親に甘えたい」という承認願望が満たされないために、
過剰に子供らしく振る舞って親を喜ばせたり、
褒められ、認められるために「理想の良い子」を演じたり、
無意識のうちに親よりも大人びて、親に気を遣っていたりする。

 

そういった家庭の子供が、性暴力被害を受けたとき、
子供は「もしかしたら自分は親に愛されていないのではないか」
という恐れから、親の理想像を破壊しないために、
自分の身に起きた本当のことを言えなくなったりする。

 

NHK「クロ現+」でも報告していたけれど、
私が感じていたよりも、こういった状況を作っている家族は
多いのかもしれない。

 

性暴力は、加害者への怒りを持たなければならないが、
家族との心のコミュニケーションが存在していないと、
打ち明けることもままならない。

 

打ち明けられない出来事は性暴力だけに限らないので、
家族問題はまた別に考えなければならないとも思うが、
なにしろ「形」は整っていても「見えない」問題だから
とてもやっかいだ。

 

今後、社会心理学や臨床心理学なんかの見識がすごく
必要になってくるんじゃないかな。

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女と男《8》 女性取締役は1割

今朝の東京新聞に、今年に入って東証一部上場の主要100社で
ようやく女性役員が1割に達したという記事があった。
投資家が起業に対して女性登用を働きかけても、経営陣の
根強い抵抗があるという内容だ。
男性だけで夜の店で暗黙のルールを伝承していたりして、
女性は除外され、女性登用は「最優先事項ではない」という。

マフィアの円卓かいな。

 

欧米には、女性取締役の割合を30〜40%とする目標を
設定して、届かない場合は罰則を課す国もある。
その制度によって、これまで不当に阻止されていた女性の
登用が促進された面もあるようだが、
以前、私が読んだ調査論文では、
単に罰則逃れのために「お飾り」の女性を登用したり、
ひとりの女性が何社もの取締役を掛け持ちしている例
もあると報告されていた。

 

そもそも女性の人材不足ということもあるし、
結局、制度を作ったとしても、男性の側に
「女性に仕事を与えてやらねばならない」
という上から目線の感覚があると、意味がないのだろう。

 

それから、日本の場合は、女性側にも
「そんなに無理して働くよりは……」という感覚が眠っている
場合もあるんじゃないかと思う。
私みたいな断固フリーの人間でも、経済状況によって、
「経済的に頼れたらいいよなあ」と夢想する時があった。

 

昭和世代の母親は、私が子どもの頃、
「女の子は勉強はほどほどにしておいて、勤め先でいい男性を
つかまえて寿退社するのが一番」

とよく言っていた。
でも、大人になってみると現実は全然そんな感じじゃないし、
それって時代的にも感覚的にも古いのではと思うようになる。

 

ただ、私の思春期には、広瀬香美の『ロマンスの神様』や、
平松愛理の『部屋とYシャツと私』のような歌が流行していて、
心の中に「男性をつかまえて寿」という幻想だけがなんとなく
残っていた気がする。
だから経済的基盤が揺らいで、心の断層がズレた時、
私の心の古い地層からそういう感覚が露出したんだろうと
自己分析している。

 

ただし「幻想」と書いたけれど、このような感覚を女性が
一切持っていてはいけない、とまでは私は言えない。
そこはまだ判断できていないところだ。
なにしろ、歌の世界と、寿退社して専業主婦になった人の現実の
大変さは全く異なるものだし、専業主婦を全否定する人を見ると、
それってヤッカミじゃないの、と思ってしまうのが本音なのだ。

 

適齢期の女性を調査すれば「結婚して子供を2〜3人産みたい」
というのが多くの人の本音だ。
女性は子供を産みたいのである。
そして育てることは、孤独ではできない。
お金も必要だし、適した環境、町が必要だ。
男性だけの稼ぎに頼って育てるというのは、すでにかなりの
無理があるというのが今の時代の現実なのだから、
いつまでも「女性に仕事を与えてやる」というマインドでは困る。
女性が余計なヤッカミを受けることなしにすいすいと
力を発揮できるように変わらなければならない。

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女と男《7》 恋愛感情と条件 

「この人が好き。だからこの人と一緒にいたい」

と考える人と、

「この人と一緒にいれば、自分の思惑が叶う。だから一緒にいたい」

と考える人がいると思う。

 

両方が混在している人もいるし、
思惑からはじまったのに、変わる人もいると思う。
お見合いから長い愛情がはじまる場合もある。
恋愛・結婚指南の考え方にもどちらもあって、
現代では、一般的には後者が「賢い選択」とされていて、
前者は、相手との関係性に行きづまるような状態になった時、
思いやりの心を復活させるために、投げかけられる言葉だったりする。

 

私の場合は

「ヽ(^▽^*)/〜♡♡♡ 好きい! きゃー、一緒にいるーー♡♡」

と思ったのに、

「うおぉおおぉ・・・ヤバーーーッ! 逃げろーー ΣΣ(; ̄△ ̄)」

ということになるパターンが過去にあって、
振り返るたびに、それってどうなんだと自分で自分に落胆するが、
まずは「この人が好き!」から入るほうだ。
相手を好きになる心に隙があるから、失敗もするが、
それ以外の方法で、恋愛感情を持てないから仕方ない。

 

ところが、こういう感情先走り型の私が、やたらと
「結婚したほうがいいのかなあ」とボヤボヤ思っていたことが
あった。相手がいるわけではなかった。
でも、周囲の人にそう漏らしていた。
結局そのボヤボヤは、「好き!」と思える人が出現してたちまち
雲散霧消してしまったのだが……。

 

最近、その頃のことを振り返って、よくよく考えたのだが、
あれは、経済的な不安の現れだったんだと気が付いた。

当時は、自分が仕事を得ていた取引先の中で、二番目に太かった
広告の会社が解散してしまい、収入が3割減になっていた。
そんなことはフリーランスで生きていれば何度も起きることで、
すべては自分の責任だから、バイトでもなんでもしながら必死で
立て直すしかないのだが、
年齢的な面や、体調の悪さを感じることが多くなったり、
そのちょっと前に、一緒に楽しくやっていた相棒が急死したり、
根本的にかなりの不安があって、心に影響していた時期だった。
それで、

 

「このまま一人でやっていくのは、しんどいかも」

 

という気持ちが生まれていたのだ。
そういう気持ちから出現したのが「結婚したほうがいいのかなあ」。
つまり、「経済的に少しでも頼りになる男性を見つけて、安心を
得ることを
考えたほうがいいのかなあ」という風に思ったんだろう。

 

「好きなこの人と一緒にいたい」という恋愛しかできないのに、
どこにいるかわからない「いたら良さそうな人」を描いたわけだ。
もちろんそんな人はいないわけで……。

 

だから、格差がどんどん広がり、女性の待遇も低い状態で、
付き合う男性の条件として「経済面」を重視する人の気持ちは
わかる。
そうでないと生活を保てなさそうだという不安を、気合や理屈で
解消するのは無理だ。
私のような「無計画・ダ・ノーフューチャー!」は珍獣で、
ある程度は人生の計画をするほうがいいと思う。

 

ただ私の「結婚したほうがいいのかなあ」は現実感がなかった。
過去にもっと凄い貧乏を体験したからかもしれない。
本気の危機になると、ひたすら必死で働いて動くしかないから
悩んでる暇もなくなる。
ボヤボヤと結婚を思い浮かべたのは、
実は、「悩む余裕」から生まれた不安でしかなかった。

 

その後、経済状況はなんとか立て直して、
以前の傾いたアパートから、現在の真っすぐなマンションに引越して、
贅沢はできないけど、とにかく落ち着いて仕事する環境は作った。

 

それから、息子との関係が、当初に想像していたものとは違う展開
になってきた。今は、自分の収入がもっと上がって、自宅と別に、
仕事部屋を借りるぐらいのことができる状態になったなら、
その時もし縁のある人がいれば、生活を共にすることを考えても
いいのかな、という風に考えるようになった。

 

恋愛感情はあっても、とにかく「資金難による吸収合併」のような
形は私は選ばないでおこうと思っている。
大変だけど、貧乏でいいから自立しておきたいのだ。

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女と男《6》 義父と夫

「私は結婚して夫と共働き。夫の両親と同居です。
私は教師です。仕事が忙しく、家のことをする余裕がないのですが、
幸いにも笑顔で引き受けてくれる義母に恵まれ、任せてきました。
ところがこの数年、義母の家事に対する姿勢があまりに完全主義で
私はいま、とても苦しい思いをしています」

 

「義母は掃除、洗濯、食事の支度まで、自分の一日のすべてを
家事に使っています。なぜそこまで義母はがんばるのか?
実は、すべては息子のため……つまり私の夫のためだったのです。
漬物一つから、すべてが私の夫の好みに合わせられており、
夫はとても幸福そうにしていますが、私はたまの休みになっても、
まったく妻らしいことはできず、義母に太刀打ちできません」

 

「義母は義父と結婚し、戦争の過酷な時代を乗り越えましたが、
戦後の農地改革ですべてを失い、たちまち夫と不仲になったと
いいます。4人いた子どもも次々と死に、残ったのは次男だけ。
それが私の夫なのです」

 

「義母は義父の存在を疎んじているようでした。
若い頃の義父は大変な女道楽で、だらしなく、ヤクザのようなもの
だったといいます。才女だった妻は相当に苦しめられたそうです。
その仕返しを今になってしているのでしょうか」

「義父が帰宅しても、義母は玄関に出たことはありません。
食事も、私の夫には自分のものをさいてでも与えるのに、
義父には味噌汁一杯あたためません。
私は、私の夫のためにこしらえられた食事のおこぼれを、
申し訳ない思いでいただきながら、疎外されている義父を
かわいそうに思って味噌汁やおかずをあたためてあげて
いるような状態です」

 

「一昨年、義父は体調を壊して寝込みましたが、
その間、義母は一度も義父の様子をうかがうことはなく、
世話をしたのは私ひとりでした。
一方で、私の夫が風邪をひいた時は、義母は、私の夫の寝室に
陣取って看病の限りを尽くし、お互いふたりだけにしか見せない
表情を浮かべ、それは幸福そうに談笑していました」

 

「私がこの家に嫁入りをして、誰よりも喜んでくれたのは、
完全に疎外されている義父でした。
しかし、その義父も他界しました」

 

「私はある日、夫にすがりついて泣きました。
『私は一体なんなのよ。これじゃあまるでお義母さんが妻で、
私は二号さんじゃないの!』
すると夫は言いました。
『もうすこしの辛抱だ。おふくろは本当に苦労させられたんだ。
俺だけが頼りなんだ。それが嫌なら君の自由にしてもいいよ』」

 

「義母は、私の夫に対してまるで妻のように振舞っています。
でも、肉体関係があるのは本当の妻である私だけ。
その点、私は現役で、義母は私に勝てません。
肉体関係だけが誇りだなんて、なんてイヤらしいのでしょう。
でも、夫はこのイヤらしさとは絶対に離れられないはずです。
義母が夫から離れないのなら、私はますますセクシーな女になり
夫を自分のものにしてやろう。
こんな私は、将来、色き〇がいの姑になるのでしょうか」

 

以上、1973年の『婦人公論6月号』に掲載されていた、
嫁姑体験記より要約して再構成。実話。

はわわ。まるで『泥にまみれて・その後』だ。
夫婦関係で秘められた嫉妬心は、その後、こうして息子に
投射され、嫁姑問題を引き起こす。

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「客観」考

先日の生放送で「客観視とはなんなのか」という話をした後、
しばらく考えていたことなのだけれども、

完璧な客観視というのは人間には不可能な話で、
重要なことは、物事を見るとき、考えるときに、
どれだけ自分の視点を動かす自由を獲得しているかということ、
そういう姿勢を持とうとすることなんじゃないかと思った。
視点は、左右にも、上下にも、遠近にも動かせるものだ。
もしかしたら「遠近」が一番難しいかもしれないけど、
現実には奥行きがあるから、そこは鍛えたい…。

 

そして、そんな風に視点を動かすのは、ほかならぬ自分だと思う。
だからやっぱり、「客観」とは言え、
他人の視線を借りるということではなく、
どのぐらい自分で疑問を持っているか、とか、
どのぐらい自分の意思を持っているか、とか、
どのぐらい現実を見ようとしているか、というところに、
かかってくるように思う。
こりゃ大変。

こんなの、私がひとりで考えてるだけで、
実は当たり前のことなのかもしれないけどな。
でも、特に政治家はそういう人であってほしいよ。

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女と男《5》 アナと雪の女王

『アナと雪の女王』の続編が来週公開されるそうで、
昨夜テレビをつけると、前作が放送されていた。
ちょうど雪山の「ありの〜ままで〜」のシーンだった。

 

あの歌は一番の見せ場だけれども、
歌っている女王・エルサ本人にとっては、
「自分の魔法の力を封じなければならない」という恐怖から、
人々に対しても、自分を心配してくれる妹アナに対しても、
そして、自分自身の過去に対してまでも扉を閉ざし、
孤立して生きるということを決めた、
その、ごく一時的な反動による解放の瞬間だ。
歌の伸びやかさと、現実のエルサの境遇との落差がはげしく、
なかなか複雑な気持ちにさせられる場面でもある。

 

『アナ雪』では、男女の恋愛はあくまでもオマケでしかない。
それよりも社会の中で能力と感情を抑えて、
殻の中に閉じこもって生きるしかなくなった女王を、
どう解放するのかということに主眼が置かれた、
ものすごく現代的な物語になっている。

 

「白馬の王子様」なんかロクでもない男だという設定だし、
エルサが魔法を使っていたという記憶を消されて、
ただただ朗らかに生きてきたアナのほうは、
そのロクでもない男に簡単に騙される。

 

アナもまた、エルサのように重要な過去の記憶を封印されており、
エルサの分身のような存在として、淋しさゆえにニセモノの愛に
惑わされる子羊なのである。

 

エルサの凍りついた心のために、分身のアナもまた心が凍って
死に向かうことになるが、これを救うには、おとぎ話らしく
「真実の愛」が必要だということになる。
だが、そのために必要なのは男性ではない。

 

愛が必要で、愛を与えてあげなければならないのは、
姉・エルサが過去に置き去りにし、拒絶し、蔑視してきた
「自分自身」なのである。

自分を受け入れられなかったから、周囲の人々を拒絶し、
氷の壁を作ってきた。
その姿を、分身である妹・アナを通して見つけ、抱いたことで、
はじめて自分の「ありのまま」を愛せる心が完成し、
周囲と打ち解けられるようになる。

 

心の成長をとげ、強く生きていける自分に生まれ変わった、
その瞬間がクライマックスなのだ。

 

冒険と成長といえば、少年の物語というイメージがあったが、
『アナ雪』は、少女を通して、内面の冒険と成長を描いた。

 

そこには、子供たちの置かれている孤独や孤立も反映されているし、
社会において能力を封印される女性の姿も反映されている。
続編はどんな物語になるのだろう。

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女と男《4》 羨望

「少年にはペニスがあるが、少女にはそれがない。
だから少女は無意識にペニスを羨ましく思うという
コンプレックスを持つようになり、
少女は自分を劣等なものとみなす。
それが『男になりたい』という願望や、
少年への復讐心を生み出し、
少年はそのような少女に怯える」

 

って、
以前読んだ古い精神分析学の解説書に書かれていたのだが、
フロイトの理論がベースになっているらしい。

 

男も女もそれぞれの身体を授かって生まれて来るのに、
どしてその結果、ペニスだけに話が回収されていくんだろう?
よくわからなかった。
むしろそれって、自分のペニスを貴重品だと思いすぎた男が、
ちょん切られる恐怖から妄想を抱いたんじゃないのかしら、
なんて思ったりもした。

 

それで、同時代の女性の意見も知りたいと思い、
カレン・ホーナイという女性の精神分析医の本と出会った。

 

ホーナイは、フロイトの理論が男性に偏っていると指摘しつつ、
けれども、完全に否定する態度はとらず、

 

「Aの理論は不満に思うし、考察が足りないと思うが、
Bの理論はたしかに自分が診てきた女性患者を分析したものと
合致する。この点において、フロイトの推測は正しいだろう」

 

という姿勢で、批判しながら、発展もさせていた。

 

ホーナイが研究してきた、強い劣等感を持つ女性たちの中には、
確かに子供の頃、道端で立ち小便をする男性を見たりなんかして、
「自分にはあれがない」と強烈に思った人たちもいるようだ。
でも、それが女性のすべてというわけじゃない。

 

性器の違いはそれぞれの性への影響はたしかにあるようだが、
男性には突き出たものがある一方で、
女性には「宿して生む」という生殖機能がある。
単に「異なる」だけで、どちらかが劣っているとか、
不利であるということはない。

ホーナイは、むしろ「繁殖力」においては、女性のほうが有利で、
男性が女性を羨望するところもあるのではと言う。

 

他にも女性の深層心理について、社会との関係が影響を与える面も
大きいはずだという視点で、いろんな女性の性格について分析する
論考を書いていて、面白く読んだ。
難しすぎて斜め読みになるところもすごく多いけど。

 

カレン・ホーナイは、長年フロイトの理論に沿って臨床した上で、
その結果から、批判的な意見を含む論文を書いたのだが、
「精神分析学の創始者たるフロイトこそ正統派」とする学者たちに
大変な衝撃を与えてしまったらしく、精神分析協会から除名された
らしい。

 

なんだそりゃ。
権威主義って本当に幼稚なことをするんだな。
男尊女卑じゃないか?
よりにもよって精神分析の学者たちがねえ。

 

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女と男《3》 男やもめ

 

「男やもめにウジがわき、女やもめに花が咲く」

 

妻を失った「男やもめ」は、それはもう悲惨なものだが、
夫を失った「女やもめ」は、そこから自由に着飾ったりして、
第二の人生を謳歌させるものだというイメージがある。

 

妻に尽くされた男と、夫に尽くした女、
それぞれの人生の終盤の姿だが、いつ頃生まれた言葉だろう?
私が聞いたのは、池袋の寄席だったから、恐らく江戸時代の
庶民文化から出たのだろうと想像しているが、
現在でも、40代ぐらいから上の夫婦には通じる世界観に思う。

 

「男やもめ」はまだ言葉として残っているほうだと思うが、
「女やもめ」は使わない。
配偶者を亡くした人として、男のほうが哀れな存在に見えて、
ひそひそと話題にのぼりがちだからだろうか。

 

「男やもめになって、かわいそうねえ、すっかり老け込んで」

 

女がこういう風に語るとき、
本当にその男性に同情して心を痛めている場合と、
心の底に自分の夫への憎悪や敵意を隠し持っていて、
それを男やもめになった人に投影することで、
「あの人、いままで散々奥さんに依存してきたのね、いい気味」
と見下している場合があると思う。

 

つまり蔑称なのかもしれない。

だからってポリコレ棒で殴らないでほしいが。

 

外から「女に尽くさせる勝手な男」「男に尽くす弱い女」と
いう風に見えていても、それは「今、目で見える範囲のもの」
に対する評価でしかなく、
ある日、人生のヴェールが開帳されたとき、
実は女も男も他人が批判できるほど簡単な生き方ではなかった、
ということがわかるものなのだと思う。

 

 

数年前、93歳の夫が60年間連れ添った83歳の妻を絞殺するという
事件が発生し、その裁判があった。
妻は事件の1年ほど前から足腰が弱り、転倒して腰を骨折、
自力で歩くことができなくなっていた。

夫は90代の体に鞭を打ち、ひとりで妻の介護と家事をこなして
おり、スーパーへ買い物に出る姿などが目撃されていた。

 

妻はだんだん痛み止めの薬も効かなくなり、「痛みで眠れない」
「もう死んでもかまわない」と何度も漏らすようになった。
苦痛は増していき、事件前夜、廊下で転倒した妻がついに、
夫に「殺してほしい」と懇願した。

 

その夜、93歳の夫は83歳の妻に添い寝をして、
出会ってから結婚するまでのこと、子どもが生まれたときのこと、
夫婦の間のいろいろな思い出を語って聞かせたという。
妻は、それをニコニコと笑顔で聞いた。
60年分の夫婦の思い出を語り終わったとき、夫は妻にもう一度
その意思を確認した。
そして、ネクタイに手をかけた。

 

判決は、嘱託殺人としてはかなり異例の恩情で、
「被告人が被害者を早期に苦しみから解放することを最優先に
犯行に及んだことを強く非難することはできない。むしろ、
60年以上連れ添った妻を自ら手に掛けることを決断せざるを
得なかった被告人の苦悩を考えれば、同情を禁じ得ない」
として、「懲役3年、執行猶予5年」となった。

 

生きる気力を失った妻を、最後の最後に、夫が愛情だけで
受け止め、尽くすこともあるのだ。

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