女と男《3》 男やもめ

 

「男やもめにウジがわき、女やもめに花が咲く」

 

妻を失った「男やもめ」は、それはもう悲惨なものだが、
夫を失った「女やもめ」は、そこから自由に着飾ったりして、
第二の人生を謳歌させるものだというイメージがある。

 

妻に尽くされた男と、夫に尽くした女、
それぞれの人生の終盤の姿だが、いつ頃生まれた言葉だろう?
私が聞いたのは、池袋の寄席だったから、恐らく江戸時代の
庶民文化から出たのだろうと想像しているが、
現在でも、40代ぐらいから上の夫婦には通じる世界観に思う。

 

「男やもめ」はまだ言葉として残っているほうだと思うが、
「女やもめ」は使わない。
配偶者を亡くした人として、男のほうが哀れな存在に見えて、
ひそひそと話題にのぼりがちだからだろうか。

 

「男やもめになって、かわいそうねえ、すっかり老け込んで」

 

女がこういう風に語るとき、
本当にその男性に同情して心を痛めている場合と、
心の底に自分の夫への憎悪や敵意を隠し持っていて、
それを男やもめになった人に投影することで、
「あの人、いままで散々奥さんに依存してきたのね、いい気味」
と見下している場合があると思う。

 

つまり蔑称なのかもしれない。

だからってポリコレ棒で殴らないでほしいが。

 

外から「女に尽くさせる勝手な男」「男に尽くす弱い女」と
いう風に見えていても、それは「今、目で見える範囲のもの」
に対する評価でしかなく、
ある日、人生のヴェールが開帳されたとき、
実は女も男も他人が批判できるほど簡単な生き方ではなかった、
ということがわかるものなのだと思う。

 

 

数年前、93歳の夫が60年間連れ添った83歳の妻を絞殺するという
事件が発生し、その裁判があった。
妻は事件の1年ほど前から足腰が弱り、転倒して腰を骨折、
自力で歩くことができなくなっていた。

夫は90代の体に鞭を打ち、ひとりで妻の介護と家事をこなして
おり、スーパーへ買い物に出る姿などが目撃されていた。

 

妻はだんだん痛み止めの薬も効かなくなり、「痛みで眠れない」
「もう死んでもかまわない」と何度も漏らすようになった。
苦痛は増していき、事件前夜、廊下で転倒した妻がついに、
夫に「殺してほしい」と懇願した。

 

その夜、93歳の夫は83歳の妻に添い寝をして、
出会ってから結婚するまでのこと、子どもが生まれたときのこと、
夫婦の間のいろいろな思い出を語って聞かせたという。
妻は、それをニコニコと笑顔で聞いた。
60年分の夫婦の思い出を語り終わったとき、夫は妻にもう一度
その意思を確認した。
そして、ネクタイに手をかけた。

 

判決は、嘱託殺人としてはかなり異例の恩情で、
「被告人が被害者を早期に苦しみから解放することを最優先に
犯行に及んだことを強く非難することはできない。むしろ、
60年以上連れ添った妻を自ら手に掛けることを決断せざるを
得なかった被告人の苦悩を考えれば、同情を禁じ得ない」
として、「懲役3年、執行猶予5年」となった。

 

生きる気力を失った妻を、最後の最後に、夫が愛情だけで
受け止め、尽くすこともあるのだ。

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差別と障害

憲法に関する過去の自分のブログを検索していて、

「個人として尊重される」か「人として尊重される」かの議論に

ふれた記事が目に入った。

 

「小人投げ」の話を聞いたときのブログだ。

いまはほとんど禁止されているけれども、昔はヨーロッパの酒場で

行われていたというゲームが「小人投げ」。

小人症の人にヘルメットをかぶせてパンパンに詰め物をした服を着せ、

みんなで投げる。一番遠くまで投げた人が勝つ。

 

これを「差別」ととらえるか。

はたまた、投げられる小人は、投げられることで収入を得ているの

だから、「職業の自由」ととらえるか。

 

日本にだって「小人プロレス」があったし、古くは見世物小屋があったし、

中国には現在も「小矮人王国」といって、小人症の人だけがキャスト

として登場し、ダンスや曲芸を披露しているアミューズメントパークが

あり、欧米メディアや人権団体からは「障害を見世物にするな!」と

批難されている。

でも、そこで働く人たちは、それが生活の糧である。

 

障害を見世物にして稼いではならないということになれば、

障害者は、才能があっても稼いではいけないというような変な話に

なってしまう。

 

この論点、なんだかとても気になる。

人はどう結論するだろう。

自分の出した結論を「言いたくない」という人もいそうだ。

 

 

 

 

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女と男《2》 独占欲

独占欲

 

好きな男性ができて、「私と彼の美しき世界」なる幻想の時間が
過ぎ去り、なんらかの現実が見えはじめると、いつもそこから
自分の独占欲との「内なる戦い」がはじまる。

 

小学校5年生のとき、サッカー部のキャプテンだったコバヤシ君が
私の初恋の男性だ。
放課後はよく校庭で駆け回るコバヤシ君の姿をほわあんとした
気持ちで眺めていた。

 

クラスには、発育が早くてすでに大人の女らしさをまとった女子の
グループがあり、コバヤシ君は彼女たちとよく話していた。
みんなで電車に乗ってナガシマスパーランドへ遊びに行ったらしい。
ジェットコースターの話で盛り上がり、じゃれついていた。

 

私はひとりで本を読んだり、ごそごそとノートに小説を書いたり
している内向的なタイプで、「大人っぽいグループ」の様子に
圧倒されつつ、横目で羨望しながら、ただじっとしていた。

 

でも好き。ああ話したい。でも無理。でも好き。

 

想いが胸の中で爆発した私は、学校から帰るとすぐに勉強机に
向かい、ノートを開いてそこに小説を書きはじめた。

 

主人公は私とコバヤシ君である。
人気者で素晴らしい容姿と俊敏な運動能力を持つ彼、
きらきらとサッカーボールを追う元気な姿を描いたあと、
私はコバヤシ君を突然の交通事故に合わせて足の骨を折った。

 

サッカーができなくなったコバヤシ君を、散々苦悩させて
人生最悪なまでに落ち込ませる。
私はそんなコバヤシ君に付き添って、ときに励まし、ときに諭し、
ときに優しく甘くささやいて、賢明にリハビリ生活を支えて、
見事ふたたびサッカーのできる体にもどした。

 

大学ノート1冊分にもおよぶ大作で、
ジュディ・オングのような羽を広げた私が、
足にぐるぐる包帯を巻いたコバヤシ君を抱いている、
精神分析学的に見ればぞっとするような挿絵付きである。

 

書き上げたときは非常に満足した。

 

ところが、現実の学校では、コバヤシ君とはまだ話すことも
できていない。
大人っぽい女子たちに囲まれて談笑している様子を見て、
またもや内なる独占欲がめらめらと燃えはじめ、暴発していく。

 

学校から帰ると再び勉強机に向かい、新たなノートを広げて
小説の第二章を書きはじめた。

 

ようやくサッカーができるようになったコバヤシ君だったが、
今度は不治の病にして、とても頑丈な大病院に長期入院させた。
落ち込むコバヤシ君をはげまし、抱きしめ、笑顔でなごませ、
サッカーボールを窓から投げ捨ててしまう様子を、
病室のドアのすきまからジッと見ていて、
院内でサッカーチームを作る手伝いをしたりした。
コバヤシ君は二度と病院の塀の外へと出ることはなかったが、
献身的な私の看護によって、幸せに暮らした。

 

・・・・・・怖すぎる!
しかし小学生の女児でも、これほどの悪魔のような独占欲を
燃やすのである。
大学ノート2冊に渡るこの小説は、書いている本人は愛の世界と
思い込んでいるのだが、その思い込みが強すぎるところが、
むしろ「ホラー」として楽しめるという無気味さを醸していた。

 

愛子さまが、中学1年生の頃にお書きになったファンタジー小説
『愛子の診療所』とは完全真逆の強烈なエゴのみの世界である。

愛子さまは、広い海原の上に取り残された看護師の自分が、
そこに訪れたさまざまな傷ついた生き物たちをひたすら看護し、
生き物たちの生きる活力になるという世界観を描かれている。
高貴な母性で国民一人一人を包み、癒す天皇像が、中学1年生の
時点ですでに愛子さまの中に宿っているのだと思う。
すごいことだ。

 

一国民の私は、高貴な母性的感性を持つ愛子さまに感嘆しながら、
自分のひどい独占欲とのギャップにぽりぽりと頭をかき、
いつまた始まるやもしれぬ欲の暴発、内なる戦いに備えて
「アタシってばさ・・・」とだらしなく頬杖をついてため息を漏らす。
やさぐれ切らないように、少しやさぐれて、でもまた罠に嵌るのが
私のキャラクターである。

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女と男《1》

女と男《1》

 

きょうは締め切り。ブログを書いている場合じゃないのだけど、
まずいことに頭がちっとも働かなくなった。
文章を組み立てる能力を司る脳のどこかが眠ってしまったみたいだ。

九州で、何人もの人が「ブログが面白い」と言ってくれたので、
もっと裸婦に、いやラフに、自分の考えていることを書こうと思った。
ただ私はあちこち興味関心が向きすぎるので、ひとつのテーマを
深堀りしてねちねち書いたほうが面白いんじゃないかと考えた。
この際だから「女と男」というテーマで、時々、エッセイみたいに
さらさら書いていこうと思う。

 

***

 

母性についての議論をしながら、やんわりと「母性」とは一体
どういうものなのかを考えていた。
辞書を引いていろいろと読んでみたけれど、なんだか理屈っぽくて
自分の感覚とは違う気がする。
なんでもしてあげたい、世話をしてあげたい、甘えさせてあげたい、
そういうものが母性であるような雰囲気もあるけれど……。

 

私自身のなかで体験したことのある感覚をいま一度さぐったとき、
母性というのは、そういったセカセカした行為そのものではなく、
いつくしみの心で受け入れて包摂する、
「抱く(いだく)」感覚のことではないかと思い至った。

 

上皇、上皇后両陛下が、オランダの養護学校へお出ましになった時、
歓迎式典が終わってから、泣きながらとことこと駆け寄ってきた
小さな女の子を、美智子さまがすっとしゃがんでとても優しく
抱きしめるという場面があった。
オランダの人々を深く感動させた出来事としても報じられたけれど、
私は、あのお姿が、母性の象徴なのだと思う。

 

抱いて、受け入れて、包摂していく、
見返りを求めるような気持ちはないもので、
ただの優しさではなく、芯の強さや胸の深さがあるものだと思う。

受容には覚悟がいるのだ。

 

子どもを産んでいる、産んでいないは関係ないかもしれない。
母親であっても、母性をずっと持っているかもどうかわからない。
虐待親のように、母性があるとは思えない人間もいるからだ。
どこかで私欲や自己愛にまみれてしまい、見失ったり、濁ったり、
でもまた思い出し、取り戻すものかもしれない。

 

美智子さまのあの象徴的なお姿ほど完全なものではなくとも、
そこに共鳴する感性があり、抱いて、受け入れて、包摂するような
母性的感覚を持つ女性はたくさんいると思う。
そこから「なにかしてあげたい」「お世話してあげたい」という
気持ちも生まれているのではないだろうか。
だからあまり母性の否定はできない。

 

***

 

今後、このテーマで書くときは番号をふる。
推敲はなし。さらっと。
だからまったく真逆のことを書き出すかもしれない。

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ジュディ・オングもいれば林芙美子もいる

実家に、幼児の頃の私が歌を歌っているところを
父が録音したカセットテープがあって、
いつだかこっそり聞いてみたことがあるんだけど、
3歳ぐらいの私が、ものすごく気持ちよさそうに
ジュディ・オングの『魅せられて』を熱唱していて
ひとりで大爆笑してしまった。

 

「うぇでごいべでえ〜〜じぇ〜〜〜〜〜
おんにゃはうみ〜〜〜〜
しゅきなおとこの〜〜うでのなかじぇも〜〜
ちがうおとこの〜〜〜ゆめをみる〜〜
んんん〜〜はあああん〜〜んんん〜〜はあああん〜〜
わたちのな〜かで、おねむりなしゃ〜い」

 

んんん〜〜はあああん〜〜の部分が気持ちこもってて。
父もよく笑わずに録音したよね。
両手にすだれを持って、椅子の上で歌ったの、覚えてる。
あれは何かの片鱗だったのか。

 

***

 

女ごころについて。

石川達三の『泥にまみれて』は、結婚した夫婦のバージョンで、
同じ戦中戦後の時期の、結婚していないバージョンが、
林芙美子の『浮雲』かなと思う。

 

映画にもなっているけど、あれはもうただただうつむいて
ハンカチで顔をおさえる羽目になって、しばらく気分が
重苦しかった。


敗戦によって何かが崩壊してしまった男と、
どうしてもその男についていきたい女が、
どんな風になっていくのかというのを描いた話だ。

 

二人は、戦中はベトナムに赴任して蜜月を過ごしていて、
敗戦後、内地に引き上げてから、寄りかかる場所を失い、
「放浪」の道へと入っていく。
男は、自分がベトナムで女と楽しんでいたあいだ、
内地では兵隊達が血を流していたのだと思い至るのだが、
そこに恋愛も濃密に絡んでくる。しかも複数の女との。

 

正直すぎるほど正直な男女の弱さ、したたかさ、ずるさ、
血まみれの姿が描写されていくので、
私はこれを書いた林芙美子という女が「恐ろしい」と思った。

でも、放浪と恋愛と、そしてなにより現実をかなり冷徹に
組み合わせて描いてしまうこの作風は、
「やっぱり林芙美子、さすがだな」という風に思った。

 

以前住んでいた新宿のアパートの近所に、
林芙美子の元邸宅があり、「林芙美子記念館」として
公開されていたので、東京の人かと思っていたのだけど、
いま『浮雲』の本の袖を見なおしたら、九州の女性なのね。

 

恋する女は何を考えているか、わかったもんじゃない。

  


浮雲

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規格外のキャラクター

自分にとって規格外の人を見たときに、
相手をその規格外のキャラクター通りに受け取って、
良いところも悪いところも同時に見て付き合っていける人と、
相手を自分の受け入れられる範囲内に当てはめようとして、
当てはまらない部分=悪い部分という風に受け取ってしまう人
がいると思う。

 

規格外の人は、波風立てるし摩擦も起こすから、
人間の心理としては、思わず拒絶したり、自分の規範意識が
物を言いたくなるのはしょうがないところもある。
ただ、波風立てるところも含めて「キャラクター通り」に見る
ことができるようになれば、自然とつきあい方もわかるんじゃ
ないかと思う。

 

話は変わるけど、きのう『ドクターX』を見ていたら、
清水ミチコ演じる次世代がんゲノム内科部長が、
大門未知子に向かって、
「優秀すぎる人間は忖度ができない。優秀すぎる女医は絶対に
組織からはじき出されるから折り合いをつけたほうがいい」

と優越感たっぷりに説教しはじめるシーンがあって、
めちゃ面白かった。

とにかく、清水ミチコのがすごい。
あのの威力はハンパない。


そして、環境に順応しようとするあまり、能力のある女の足を
引っ張ろうとする女って、こういう感覚なんだなとも思った。

 

次世代がんゲノム内科部長は、いかに自分がすばらしい経歴を
持っていて、人に自慢できるエピソードがたくさんある女医で
あるかにこだわっていて、
病院の実質的経営権を握る副委員長・ニコラス丹下に取り入り、
悦に入るが、実は丹下からは冷酷に見られており、
それに気づいて孤独感を抱えている。
顔とマッチしすぎて、いちいち面白いので、
今後もっと活躍して心理描写を見せて欲しいキャラクターだ。

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『軽蔑』と『シェルブールの雨傘』

ゴダールの映画『軽蔑』(1963年)を観たけど、やたら素敵だった。


『軽蔑』

 

モラヴィアが書いた小説『軽蔑』をもとにして、
イタリア人夫婦の別れを描いたもので、
めろめろに愛し合っていたのに、なぜか妻に軽蔑されるように
なった劇作家の夫が、妻の心理をなんとか探ろうと、妻と会話
しながら煩悶するという内容だ。
妻は夫に愛想を尽かし、アメリカ人の男とくっついて、去る。

  

すごく面白いんだけど、小説のほうはずっと夫の一人称で、
いつまでも悶々と理屈を練っている様子に
「この男、いい加減うぜえやつだな」
とイラつく部分があった。

   

ところが、ゴダールが映画化したものは、色彩がすごく豊かで、
夫婦のやりとりを、あるアパートメントでの風景そのものとして
眺められるような良さがあった。
むちゃくちゃお洒落だし、
なにより、ブリジット・バルドーのヌードが、良すぎ!
極彩色のインテリアと、ぷりっぷりのヌードが何度も出て来て、
女の私でも見とれた。あれはやばい。

  

同時期で、カラーフィルムで撮られた映画で、
色使いが印象深いものに『シェルブールの雨傘』(1964年)
がある。


『シェルブールの雨傘』


同じヨーロッパでも、イタリアとフランスでは女性像がかなり
違ったんだなと思った。

  

『シェルブールの雨傘』は、カトリーヌ・ドヌーブが演じる
中産階級ぐらいのお嬢さんが、機械工の青年と恋愛して身ごもる。
だが直後に、青年はアルジェリア戦争に徴兵されてしまう。

観ているほうとしては、ここはひとつ未婚の母として子供を産み、
青年が戦争から帰るまで気丈に待っていてほしいと思うんだけど、
お嬢さんはそれができない。
戦場の恋人を捨て、金持ちの男と結婚して子供を産むことを選ぶ。

  

映画に描かれている時代のフランスは、今とはまったく違って
封建的な時代のブルジョワ的価値観が根強く残っていて
「夫は妻を扶養する義務を負い、妻は夫に従う義務がある」
というような民法も残っていたようだ。
子供は、家の地位を守るために結婚相手を選ぶのが当然で、
また、未婚の母は、軽蔑される対象でしかなかった。
   
劇中では、お嬢さんの母親が、未婚で妊娠したことに狼狽し、
金持ちの男になんとか娘を売ろうとする。
恋人と別れたのは、戦争で内政が崩壊した年でもあるが、
当時は検閲で反戦映画が上映できなかったので、その背景が
描けず、でも当時のフランス人には落涙ものだったらしい。

   

ほぼ同じ年の公開で、同じカラーフィルム大活用の映画で、
かたや、古い時代の価値観に縛られてしまうフランス女性、
かたや、ヌードぶりぶりで夫を捨てて出て行くイタリア女性、
こんなに違うんだなと、ちょっと驚いた。

日本女性は、これからどうなっていくのかな。

しっかし、『軽蔑』のブリジット・バルドーのヌードは、
美しかったあ。

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幻冬舎plus連載「『傷ついた』と言って他人を攻撃する人たち」

幻冬舎plus連載「オオカミ少女に気をつけろ!」
新しい記事が配信されました。

 

「『傷ついた』と言って他人を攻撃する人たち」
https://www.gentosha.jp/article/14117/

 

タイトルの通りでございます。
校正部から、原稿後半のイスラーム革命の記述に
ちぐはぐしたところがあるという指摘があったので、
修正するために、昨日イランの漫画「ペルセポリス」を
再読したのだけど、15年くらい前にはじめて読んで、
あれほどすごい漫画があるんだなあと思ったのに、
かなり読み落としていた部分があり、「へえ!」と
思うところがいっぱいあった。
作者の知識に、自分がまったく追いついてないから、
視界には入っても、記憶に残っていなかったのね…。

 

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台風一過

きのうの台風で、伊勢神宮のすぐそばを流れる五十鈴川が
危険水域をこえてしまい、かなり早い段階で集落がまるごと
水に浸かっている映像が流れていた。
友達の家がどうなったのか心配していたけど、
道路から嵩上げしたところに家が建っていたようで、
玄関ぎりぎりのところで水没を逃れたということだった。

   

私の母が住んでいる家のほうも、停電したと連絡があったので、
これは新幹線が再開したらすぐ帰らないといけない状況かと
思っていたけど、無事に復旧したようだ。
母は不安がってLINEを送ってきたり、ローソクつけたと写真を
送って来たりするので、電池を消費しないように言ったけど、
なんだか子供のようになっていて、気になる。

   

台風で予定がいろいろとずれたので、きのうは、
「天皇論『日米激突』」の中で小林先生が名前を挙げておられた
京都大学名誉教授・冨谷至氏が書いた「漢委奴国王」についての
本を読んだ。

漢文や古代中国の役職名が私にとってはとっつきづらくて、
やっと半分まで読んだところだけど、古文書を直接読みくらべ
ながら、定説をとことん疑って、詳細に分析していく様子が、
ものすごく面白かった…。
朝貢のイメージもすっかり変わった。

   

それから、買いっぱなしで忘れていたジャン・コクトーの
『恐るべき子供たち』を見た。
ジャン・コクトーはいろいろ見たり読んだりしたけど、
いまの私はこの作品が一番好きかもしれん。
幼児のまま大きくならざるを得ず、不器用にしか生きられ
ない人間への観察眼が光ってる。
強烈な自己愛に基づく偏愛で、どんどん世界が狭まってゆき、
最後に破綻するというストーリーや、
コクトーらしい、同性愛の風味がちょっと入ってるあやしさも
好きだ。

ただ、序盤、役者が小説のイメージとくらべて「子供」には
見えないというのがあったけど。

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「ニセモノのかわいい私」を生み出す美顔アプリの罠

「きれいになりたい」
「美しくありたい」

「若々しくあろう」
「若さを保ちたい」
「アンチエイジングだ」

「昔にもどりたい」
「かわいいと思われたい」
「みんなに見られたい」

 

これ全部、同じようでいて意味が違うし、

言っている人の心理状態も違うんですね。

 

幻冬舎plus連載「オオカミ少女に気をつけろ!」
新しい記事は、

 

「ニセモノのかわいい私」を生み出す美顔アプリの罠

https://www.gentosha.jp/article/14022/

以前、ジャーナリストの笹幸恵さんとの動画番組「淑女我報」で

とりあげた「美顔アプリ」について、
私自身が持っていた少女アイドルへのねじれた心とともに
掘り下げて書いてみました。

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